自己紹介にかえて
「戦中」という認識を「大東亜戦争」(一九三一年の満州事変から日中戦争、太平洋戦争に至る十五年に及ぶ戦争の総称を、四一年の閣議決定として呼ぶようになった)と捉えるとすれば、一九三三年生まれのわたしは、誕生から小学校六年生までが「戦中」時代を過ごしたということになる。
とは言え、子ども個人としては、満州事変や日中戦争に関して自覚するところがなかった。大人から聞かされたこともあったのかも知れないが、覚えていない。一つだけ痕跡をとどめているのは、中国人や朝鮮人を「チャンコロ」「チョーリンボ」と蔑視した呼び名が、子どもたちの知るところであったということだ。その呼び名によって、中国人、朝鮮人、ひいては他のアジア人よりも、日本人の方が上等な人種であるという自己了解を、子どもたちがもつようになったことは否めない。それは、日本帝国主義国家形成の下備えを、子どもたちにも担わされていたと言っていいのだろう。この蔑視感情は、都知事の「第三国人は危険」の発言や、出入国管理事務所の対応などにも色濃く残っている。
ただわたしの場合の経験は少しちがう。幼児の頃から、家に出入りしていた大好きな親子や、何かと便利な用足しをしてくれていた小父さんは「四つ」(部落の人)とか「チョウリンボ」と呼ばれる人たちであった。わたしが理解できる年頃を待って、父から蔑称の由来を聞かされた。けれど、私の大好きな人たちであることには変わりがなかった。友だちに自慢したい、頼りにする人たちであった。
蔑称に馴染めなかったわたしは、後に太平洋戦争が始まって、「鬼畜米英」の言葉を学校で教えられても、実感をもちえなかったことにも続いて行く。
わたしの出生地は、埼玉県北部に位置する加須(かぞ)という、東武伊勢崎線の沿線にある、人口六千人ほどの町であった。町のキリスト教会は、当時、伊勢崎を拠点としていた「福音伝道教団」(一九二五年、M・A・バーネット師創設)の出張伝道地として開拓されている。教会の前身であった日曜学校に、友だちに誘われた姉たち(九つ年上)が通い始め、クリスマスに母が参観に行って以来、牧師の家庭訪問を受けるようになった。母の受洗は、わたしの誕生後一年経っていたが、わたしの名づけ親は、牧師であった。
母は、商売に携わっていたので日曜礼拝がままならず、時々家庭集会を開いてもらっていた。三、四人集って賛美を歌い、聖書の学びをしている部屋には、何か特別な空気が流れていたのだろう。三歳頃に経験した大事な集会の記憶として残った。目に見えない神さま――あんたのポンポン(・・・・)の中にいるイエスさま、と母から教えられた神に、祈りをするようになったのもこの頃である。
幼稚園の年長児になった時、一人で教会に通うことになる。それから太平洋戦争勃発と共に教会が閉鎖されるまでの四年間、牧師はもとより信徒の人たちから、わたしは福音を手渡された思いが強い。本誌の編集者から「想像を絶するような経験をされたと思います」との観点から執筆依頼を受けたのだけれど、その趣旨に反してわたしの「戦中」は、神信仰の心を耕された時だったのである。
名づけ親の山川牧師は、子ども相手の礼拝説教のたびに、イエスが十字架にかかられたくだりになると、手拭いを出し、溢れる涙を拭われるのが常であった。家に見えた時の明るく親しい牧師と大違いの印象であった。子ども心に、イエスさまの十字架事件は、とっても悲しいことであったのだと受けとめた。その悲しいイエスさまの心象風景が払拭されたのは、一人の信徒が伝道集会の報告を、わたしの両親にしているのを聞いた時からである。
特集 福音と時代①――戦中・戦後を知る世代
歴史に学び、歴史をつくる / 森野善右衛門 24
「時代」として語り継ぐ戦中と敗戦直後 / 石浜みかる 31
キリスト教書出版事業と言論弾圧 / 秋山憲兄 35
そのころ「外地」では / 末光三和子 39
福音を手渡された記憶ばかりなのですが…… / 横田幸子 43
非連続の中の連続 / 橋野高明 42
*
「神の宣教」論とは何か / 岸本和世 52
新連載
一月の説教 荒れ野の果てに / 増田 琴 2
空になる心は春の1 峠の風景 / 長尾 優 12
連載
明治キリスト教史の周辺7 ケーベルの風韻 / 太田愛人 6
日本近代文学の中のキリスト教1 遠藤周作とベルナノス2 / 片山はるひ 8
神学の履歴書5 『なぜ私は生きているか』 / 佐藤 優 18
聖なる空間を訪ねて17 / 田淵 諭 49
カール・バルト対話集 第13回 教会のいのちと宣教3 / 宇野 元・翻訳 56
新しい聖書の学び 第10回 最初のキリスト教共同体エクレシア / 山口里子 73
新約釈義 使徒行伝42 16章11―40節 / 荒井 献 79
表紙の言葉 / 渡辺総一 80